夢を実現するのはいくつになっても大変なことで、そして価値あることです。
これから一人の女性とその連れ合いとの夢への歩みを記してみたいと思います。
彼女に初めて会ったのは銀座スイング、私の師匠でもある萩谷清氏のバンド
Kiyoshi Hagiya SuperBand(現在のSPB)のライブでした。
彼女は京都からはるばる駆けつけて来たのでした。
それは今から12年程前になります。
彼女は倉田信雄さんのファンであることはわかりました。
早速倉田さんとのツーショットの写真を倉田さんにお願いしたわけです。
彼女はその頃ピアノを弾いていて、京都でSTUFFのコピーバンドらしいことを
やっているので、SPBのファンなのだろうと疑いもしませんでした。
そして彼女は萩谷清さんの後援会件ファンクラブの清柳会に入会するのでした。
彼女のバンドもSPBの演奏ナンバーであるBRAZILIAN STOMPなども演奏していた
ことから、同じ清柳会の澤辺さんと私と彼女のご主人とのユニットGTORを組むことになるのでした。
その頃はまさか現在のような展開になるとは夢にも思いませんでした。
彼女は常に夢を追い求め現実少しずつ前に進める人でした。
まずは、銀座スイングに京都から来たことが彼女の人生を変える大きな一歩だったのだと思います。
しかし、其の後の展開はさすがに夢にも思いませんでした。
(その弐)
菅平とGTOR
2002年の秋には清柳会という組織で大人の遠足に行こうということになりました。
行き先は菅平のホテルマッキンレー、ここのオーナーは流石(さすが)さんと言って、もともとジャズギターを弾いていた人で、ここに移り住み
スキー教室とジャズ教室を開いていらっしゃいました。ここにはライブできるスペースが食堂にあり、以前から山岡未樹さんも生徒さんを連れてスキー合宿をされていました。
この大人の遠足でも当然、萩谷師匠を中心にみんなで演奏をしようということになり、ただセッションでやるのはつまらないからということで
GTORというユニットを結成します。ここのGというのは彼女のご主人で
ニックネームが「がっちゃん」から来ています。彼はベーシストです。
本職は京都では今は数少ない染め物職人さんです!
Oが彼女、Rは良一さん(ほんとうはよしかず)。
しっかり、曲もキメも 準備してしょっぱなを飾ります。
あとはセッションタイム、流石さんもギターやスチールギターで飛び入り
延々とセッションが続きます。
Rさんの本職 ヴォーカルですが、実はこの年の始めに京都での萩谷清ライブがあり、その翌日のセッションでRさんがドラムを叩いたらかなりいい感じということでRさんはこのときはドラマーでした。
このペンションのオーナーの流石さんは菅平ジャズフェスティバルを運営されている方で実はこのペンションの裏に或る建物を建設していたのでした。
「来年からはここで録音できるから!使って!」
まさかね、正直半信半疑でしたが。
これが、後々色々なことに繋がるなど。。。思いもよりませんでした。
(その参)
菅平とエンジニアの木村さん
ホテルマッキンレーのスタジはどうみても外見が体育館(失礼)
中は練習ホール。なのでそれなりにものだろうというのが第一印象。それから年月が経つのです。
エンジニアの木村正和氏、VMEでは「Method」はじめとして
数多くの レコーディングでお世話になっているエンジニアさんです。
或るとき「菅平でレコーディングして来ましたよ!」と仰る。
「それもしかして流石さんのところですか?」と私。
聞いてみると平原綾香さんの「そら」じゃありませんか!
なんと素晴らしい空気感。
「さすが(流石)菅平!」と思わず。
菅平のもつ清涼な空気感と流石さんのスタジオの自然なリバーヴが見事に作用しているのに驚かせられました。
そして、次の録音テーマ「L5ブラザース」をそこで録音することに迷いはありませんでした。
二人のギタリストの直居隆雄さんと萩谷清さんとがGibison L5を使ってのDuoなのです。こちらはアンプを通したものの、見事にその空気をインクルードして一発録りのライブ感が演出されています。
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そして、その後は亡きジョンレノンをトリビュートした、萩谷清
「イマジン」と繋がります。こちらは打ち込みを含んだアルバムに菅平の空気を重ねるという試みです。
あさばみほさんや、粥川なつ紀さんの参加で見事な音に仕上がりました。
Help:
http://bit.ly/sLiI2k
ノルウェーの森
http://bit.ly/v20KUh
もう、ここを使わない手はないでしょ。
(その四)
彼女は2005年くらいから唄をうたうようになります。
ある夏期親睦会に久しぶりに登場して来ました。
その時の彼女が自分で作詞作曲するシンガーソングライターになっていました。
その時からが夢を具体化する一歩に入ったのだと思います。
その曲はやさしく、深みがあり、その詞は独特の世界観があります。
それからしばらくして京都のRAGへ訪問した折りに、会う機会があり。
私、最近ファンが出来たんです。
ライブをやるとけっこう人が入るんです。っと。
だから、その時に折角来たついでに何か渡したい、そうCDでも渡したい。
という話が。
その時の彼女はまだ、軽く考えていました。
ライブの音源をCDに焼いて安く売る、そんな程度だったようです。
後に音源を聴かせてもらいましたが。
演奏や唄の問題以前に音質が今ひとつでした。
ライブは臨場感があるし、その場の雰囲気が大事。でも音だけになったら
ライブで感動して帰った人が後で聴いてみると、あれって思わないだろうか。
だから、私は反対しました。
CD作るならちゃんとレコーディングしましょうよ。と。
別にハコで重ねて録らなくてもいいので、構成はライブ的で構わないので
ちゃんと録りましょうよと。
それから、数年にわたり彼女達の悩みが始まるのでした。
時は韓流ブーム、その間に年齢層の高いファンはどんどん増えていくのでした。
なんだか、既に流れは出来ていたんでしょうね。
(その伍)
ライブの音源をCDにするというのはある意味理由があるのです。
それは弾き語りだからです。
普通にスタジオで録音したとしてもピアノの音と唄は混じってしまいます。
従ってJAZZなどと同じように基本一発録りになります。
なので、ライブなどで演ったものを録っても演奏は基本それほど変わりません。
しかし、音ばかりはもっと複雑な要素が絡みます。
マイク、場所、録音技術、色々なものが絡んで来ますから。それは私は判っていたつもりなので
強く進めなかった(暗に反対した)理由です。
その間実に5年程消費しますが。
試行錯誤を繰り返していました。
ライブを何回録って、1年半程前にこれでどうかという内容でマスタリングまでやってみたところ
あまりクオリティが上がらず、一度ペンディングになりました。
初めてCDを手にした人はラそのCDがライブとは別の楽しみ感が必要だなと思いました。
そうして今暫く迷走することになります。
でも、その間に良かったことは、曲がどんどん出来、ライブの回数を重ね、曲アレンジが洗練されてきたことです。
こうやって機は熟してきたのです。
やがて決断のときがやってきます。
(その六)
(決断の時)
そのユニットは夫婦(めおと)ユニットです。漫才じゃありません。
妻が弾き語り、夫がベースで包み込むようなそんなユニットです。
これだけでももう雰囲気が出て来ます。
曲に
チェロやヴァイオリンが加わります。
さらに加えて詞がキャッチーです。キャッチーという言い方はあまり当たってないですね。言葉に癒されます。
それに加えて昭和なメロディーラインが昭和世代の心をわしづかみにするのでしょうね。
逆に20代以下の若い世代には新鮮に映るのでしょう。
そんな二人に決断の時が来ます。
忘れもしない2011年12月8日です。
二人はもう気付いていましたね。中途半端なものを造るのは駄目だと。
思い切って清水の舞台から飛び降りる決断をしたのです。
造るなら一生もののモノを造ろう。
50歳を過ぎてから造るのだから渾身の一枚を造ろうと。
貸し切りの居酒屋で決断をしたのでした。
録音場所は「菅平」
エンジニアは同じ場所で平原綾香さんの「空」と録った方
菅平の空気感と弾き語りを混ぜてCDにしようと。
ついに決断したのでした。
50歳を越えてからのCDデビュー。
ユニット名は「風花(かざはな)」
アルバムタイトル「心の花」
(おまけ)
シメサバの会というのがあります。それはこの冬に閉店してしまった、つきみ野の「吉之助」というお店のシメサバが圧倒的に美味しくて、我が萩谷清師匠やH弁護士先生、そしてシメサバ大好き人のRさん等が集まってシメサバを食べる事になっています。
その「吉之助」という店が閉店することになり、2月にシメサバの会が実施されたのでした。
その席での話題は勿論菅平での録音でした。
そして座は盛り上がるうちに師匠の英断が出たのでした。
師匠自ら協力しようと。
その流れで、師匠と彼女が憧れるピアニストさんに助けを求む ということで菅平と東京での二カ所の録音が決まったのでした。
その後打ち合わせが進むに連れ、菅平では バイオリンとパーカッションが加わる事に。
レコーディングの日記的なものは本人に任せるとして。
このアルバムは11月16日発売です。
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